今から思えば私が初めて公式の場で「通訳」らしき活動をして対価をもらったのは、4歳のころである。
日本に生まれ生後4か月からは保育園で育ち、両親の仕事の関係で、3歳でイタリアへ移住した。ある日、イタリアで行われたカヌーの世界選手権の試合を応援しに日本チームを観戦しに行っていた。当時、もう今から40年ほどになるが、日本人はイタリアには少なく、たいていの日本人は知り合いといった環境だった。イタリアに移住してから1年を過ぎるころには、日本語、イタリア語、スペイン語とある程度(4歳児らしいレベルで)問題なく使いこなせるようになっていた。私は、母がスペイン人で父は日本人なので、家では日本語とスペイン語、家の外では幼稚園でイタリア語が当たり前であり、また、小難しい日本話をいつも知らないおじさんの膝の上で聞かされながら皆のアイドルとして、また、イタリア人女性らしい気の強い女の子に仕上がっていた。
話をこのイタリアで行われたカヌーの世界選手権での観戦の日に戻す。急遽、この公式試合のスペイン語と日本語とイタリア語の「通訳」として選手に肩車をされながら一つ下の弟と試合を回ることになったのだ。通訳時間は3-4歳児が疲れるまでで通訳内容は3語文程度、これも4歳児の能力程度、これをクリアすること3時間程度の試合は、ちやほやされながら楽しい時間だったことを今でも鮮明に覚えている。それだけ、こんな幼児に大人が頼ってくれるうれしさと役に立っている優越感でいっぱいだったのだろう。何も話さないのにいつも私についてくる弟を少し疎ましくも思いつつ、それは、起きたのだ。
両親のもとへ返され両親が選手団に感謝されて、私も感謝のご褒美をもらった時である。今では「子供を働かせるなんて」叱られてしまうのでしょうが、当時の私は「お使い」程度気持ちで両手に対価(お菓子) とバッジをもらったのだ。かわいそうだから、横の弟に一つ恵んであげようと見たときのショックは大きかった。なんと何もしていない弟の手にも対価があるではあるではないか!通訳して頑張った自分と弟が同じ対価なのだ。いや、よく見ると弟の方が少し多い!そればかりか、後で聞いたところ、「自分は通訳には絶対ならない」と同行してくれた男性にいって、駄々をこねていたそうなのである。
あれから40年、人とは不思議なものである。自分が心に「ならない」と誓った「通訳」を生業として、対価を得ている。その上通訳行為に美しささえ感じてしまう。でも、あの時何もしていない弟の対価の方が多かったという悔しい気持ちは今も覚えている。報酬で言うと「通訳」が正確で早く正しく伝えられる通訳者と、そうでない未熟な通訳者の対価が同じであってはいけないと感じている。通訳をすることは、ただ言葉を置き換えるのではなく、その人の背景を感じ取りながら陰影のごとく発話者のメッセージを映し出し、また時には立体化して伝えなければいけないのだ。輪郭を見せるだけであれば、影絵で十分(直訳)なのだが、正しく言葉を訳したと言えるのだろうかと疑問に思う。語彙力をつけ、相手のお人柄を感知して、声の色でアンテナを張り、即時に入出力して陰影のごとく、時に立体的に言葉を発する、これが正しく訳すことではないか。
言葉は文字でもあり、専門的に字を学んだ自分は人の発する「字」も大切にしたい。つまり、声として発せられる音で、見えない文字の羅列を視覚化してデザインをするのだ。文字が生まれた背景には歴史があり、文化があり、色(声色)がある。その文字の形にも意味がある。「書」でいうなれば六書のように文字を細分化して表現できないだろうか、声という声色を視覚化してデザインできないだろうかと試行錯誤する。すると、「通訳すること」は他の人の力を借りながら苦戦しながらも文字の美しい心地よい旋律の作品が作られてゆく事だとわかる。そうでない場合も多くあるが、三者でバランスが取れた時の快感は大きい。最後にお互いに感謝の気持ちを伝えあうと、なお、素敵な作品が生まれる。
そんな作品をこれからも沢山作ってゆきたいと思う、各々の声の色を付ける通訳者になりたい。ここで一番伝えたい事は、このような作品は立派な生業で、相応の対価があってこそ完成される。決してボランティアや見合わない対価で取り扱われる、というような美的センスのない行為であってはならないと思う。センスのいい作品を価値づけられる、美しい声を発する国にしたい。これが私の目指している通訳者である。そこに「通訳は立派な生業である、そこには相応の対価が発生するべきだ。」というプライドを持って芸術家を目指してゆきたい。どの作品にも相応の対価をもって価値づけてほしいものだ。(Y.Y.)
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