(私と医療通訳)

 初ブログという事でドキドキしながら書いています。

私はブラジル出⾝者で現在医療通訳者として活動しています。⽗と⺟は5歳の時、それぞれ⾼知県、福島県から⽇本移⺠として海を渡りました。当時祖⽗⺟の夢はコーヒー農園からの独⽴でした。それを果たしたのが通訳者の両親でした。私は、それに気づかないまま⽣まれてからずっと両親と⼀緒に過ごしてきましたが、⼆⼈がプロの通訳者だと気づいたのは私が⼤⼈になって家を離れてからです。実は両親こそ私の通訳の⾒本だったのです。のちに決して楽な道のりではなかったと聞かされました。

 両親は家では⽇本語しか話さず、学校に⼊る前まではポルトガル語を使うのは両親だけだったため私は、狭い⽇本⼈会というコミュニティで過ごしていました。当時はまだ⽇本から移⺠がたくさん来られていました。育った牧場には家族と⽇本から来たばかりの7家族がいました。その中で両親がボランティア通訳をしていた事を今でも鮮明に覚えています。毎⽇誰かが両親を頼って来ていました。買い物、病院、⾏政⼿続きや地域の⽅々への紹介など理由は様々でした。

 ブラジルは移⺠国家として知られており、学校ではたくさんの国の⽣徒がいましたが、それぞれが⺟国語を⼤切に守っていました。私の⼩学校のクラスではドイツ、イタリア、シリアとポルトガルの⼦供が多くいて、ランチタイムが⼀番楽しかったことを覚えています。⾷べたことのない数々の料理を味わったことが今でも懐かしいです。

 10代で⽇本へ留学に来て、⾼知県で⽇本の教育についてたくさん学びました。その後、再来⽇した時にボランティアとして医療通訳活動をMIC かながわで始めました。またNAMIにも出会った訳ですが、最初は病気に関するポルトガル語の資料があまりなく、頼っていたのは⽇常的に使っていた辞書でした。その後ブラジルへ⾏く⽅に協⼒をお願いして徐々に⼿持ちの資料を増やしていきました。資料の作成に携わったことは⾃信に繋がりました。インターネットの普及によって今ではすぐに調べられる事も多く、以前に⽐べるとしっかり予習をして通訳活動が出来るようになりました。しかし、実はNAMI のCHIP研修に初めて参加した時には⾃分の勉強不⾜を感じました。

 毎回通訳に出かける時は、医療通訳者として患者の期待に応えたい、誤訳がないように、患者が早期回復しますように、健康な⾚ちゃんが⽣まれますように、⼿術がうまくいきますようにと祈ります。これからも期待に応えられる通訳者を⽬指し、ブラシュアップして医療通

訳の上達に努めたいと思っています。(C. S.)